山梨のマチュピチュ

きのうはロケハンに行った後、
かねてから気になっていた山梨のマチュピチュに足を伸ばした。
天気は冬晴れ、中央フリーウェイにのって車を走らせる。
上野原からは高速を降り、
甲州街道を走る。
都心とは全く違う風景の連続で心が躍る。
たとえば中央道の橋脚。
「鉄骨」感がたまらない。



上野原駅近辺も宿場町の風情を残しており、
いい雰囲気。
A間くんの母校の脇を通り過ぎ、寄り道をし、
日が陰る前に先を急ぐ。
四方津駅近辺は駐車場がない。
仕方がないので駅前の月極駐車場の片隅をお借りする。
はやる気持ちで歩道橋をわたり、
マチュピチュへの入り口、コモアブリッジに到着。
頂上が見えない!ほど長く高いエスカレーター。



色んなアングルで写真を撮る。
エスカレーターは節電のため普段は動いていないので、
ケーブルカーのようなエスカレーターに乗る。
江ノ島エスカーみたい。
上昇するにつれ、山で隠れていた太陽が頭を出す。
四方津駅の周辺が足元に遠ざかる。

頂上にはあっけなく到着。
展示されてあったジオラマがかっこいい。



今回の小旅行の目的の半分以上はコモアブリッジだったので、
あとは適当にぶらぶらと散策。
日曜の昼下がりとはいえ、想像以上に人がいない。
こういう建売住宅は好きだけど、
やっぱりミステリ、ホラー感が拭えない。
『光る眼』とか『サイレントヒル』とか。
遥か未来に、人類がいったん滅亡して、
未来人たちの手によってここが発見されたら、
「何だここは??」「こんな辺境の地になぜ突如住宅跡が??」
と話題になるだろう。




その後、つげ義春の『新版 貧困旅行記』に登場する犬目宿まで足をのばす。
温泉宿の名残も、それが焼け落ちたというような跡も何もなく、
ただ遠くに富士山が見えた。
富嶽三十六景にも描かれたという眺望だけは、変わらないようだ。


さらにその後、八王子方面に戻る途中、
トリックアート館が開館中であることを発見し、飛び込む。
値段は高めだが『飛び出す風景』など面白ネタ宝庫。
是非行くべきである。
ひょっとしてミシュランはこれがあるから高尾を三つ星に選んだんじゃ、、
と思わなくもない。


夜は神宮前にて知り合いの方が一日店長された店に顔を出す。
知っている顔がたくさんで楽しく和やかな夜。

フロム新幹線

exterior2010-01-04

まだ夜が明けないうちに家を出た。
車のフロントガラスも凍っている。
早朝ではあるが、今日から仕事始めの人も多いのだろう、電車はそこそこ混んでいる。
窓の外では、通天閣のシルエットが薄明に溶けていた。
新大阪に着いて時間があったので地下の珈琲屋でモーニングを頼み、
飲み物を買ってのぞみ108号乗車する。


往路の十分の一の時間でこれから東京に向かう。
今、7時40分京都。
漸く頼もしい日差し。
遠くを見れば風景もゆっくり流れる。


今鴨川を越えた。

姓名判断の後のムカツキ

WEBで姓名判断をしてみた。


(以下転載)
ニコニコしていて自分にとって敵か味方かの鑑別が早いのです。
シンが強く趣味も豊かで負けず嫌いです。
女性は美人でおしゃれな人が多く男性は病弱で弱気の人が多いのでしょう。
親との生死別をむかえやすいのです。
憎めない人のよさがあり控え目でおとなしく思いやり深いのですが人を見る目が辛らつでスバスバと思い切ったことを言うこともあります。
手先器用、美的感覚生かせる。
職場、職種を選べば成功します。
女系家族で男性は絶えることがあり養子を迎えて家名存続します。
忠誠心、責任感、努力が徹底しています。
損得勘定高く打算的で口が悪くケチでしたたかなめんもあります。
手先の器用な人が多く、何をさせても上手にこなしますし、ギターやドラム三味線、琴などの芸事に関しては特別な才能を見せます。
しかし、これは表面的な特徴で、本質的な運勢の面から観ますと、なにをしてもうまくいかないという凶運なのです。
途中までうまくいっていたのに、人に妨げられて突然挫折するなどのことが多く、貧困、病弱、父母兄弟、家族に縁が薄い孤独者のです。
健康面では、胃腸の病気にかかりやすいので節制することが肝要です。
開運法は、共働きして相互に経済面での独立性を得ることが効果的です。

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良いとされている部分はさておき、ネガティブな判断の部分が気になる。
他のサイトも、比較してみたが、
どの姓名判断を見ても、「人生の晩期において運気下がる」とか書いてある。
「縁が薄い孤独者」ってひどい。
しかも開運法共働きって、結局自分ではどうしようもないってことか。。
ふーんふーんふーん


今年もよくがんばった。
やり残したことなんか、何一つないよ。

人を殺す夢を見た

夢の話。

付き合っている恋人の態度が次第に変貌し、
バイオレンスになっていくのに気付いた女性。
自分を庇うがついに暴力が始まり、大怪我をする。
別れた彼女は、一切の人との交流を断ち切るが、
そのうち仕事(学校?)からの帰り道で毎日立ち寄るコンビニで出会った男性と、
近しくなっていく。
ある夜、彼女の家までなんとなく一緒に帰る雰囲気になり、歩き出す。


コンビニで出会った女性をなんとなく家まで送り届ける雰囲気になったので、
男性は夜道を自転車を押して歩いていた。
彼女が以前の恋人から受けていた被虐を彼は既に知っていたが、
途中、彼女の向かう先がおかしいことに気づく。
彼女の家はこっちの方角じゃない。
何も言えないまま、笑顔で楽しそうに話す彼女を横目に、
彼は次第に不安になっていく。
ある平屋の家の前に来たとき、彼女が立ち止まる。


彼女はその家の前に立ったとき、
自分が被害者ではなく、恋人を殺した加害者であったことに突然気づく。
それを思い出しても、不安だとか怖いだとかそんな気持ちは湧かない。
ただ、「殺した」。


彼は彼女が立ち止まり、こちらを見つめた瞬間、
彼女の話が全部嘘で、彼女が殺人者であることを悟る。









なんだか良くわからない夢やけど、
目覚めた瞬間、ぼんやりとした悪寒。


最近読んだ本
神林長平『魂の駆動体』
人々が意識だけの存在として仮想空間へと移住しはじめた近未来。養老院に暮らす「私」は、確かな生の実感をとりもどすため、友人の子安とともに理想のクルマを設計する。いっぽう遙かな遠未来。太古に存在した人類の文化を研究する翼人のキリアは、遺跡で発掘された設計図をもとに、あるクルマの製作を開始するが…。機械と人間の関係を追究してきた著者が、“魂の駆動体”たるクルマと自由な精神の解放を謳う現代の寓話。


2人の老人がリンゴを盗むことから始まる奇妙な物語。意識と魂と身体を明確に分け、魂が解放される瞬間をひも解いていく。
物語の中では「リンゴを盗むこと」「酒をたしなむこと」「料理をつくること」そして「車に乗ること」が等しく扱われる。
翼人から人間に姿を変えたキリアが、人間になるということがすなわち孤独を感じることだと気づく瞬間があって、
それが感傷的な気分ではなく、人間を監察する翼人としての意識で語られているのが面白い。


とても大きな仕事の真っ最中。
予算が大きい=楽しいではないことに何となく気づく。
「新しい」とはどういうことは考える。


誰も自分のことを知らない土地ではなく、
自分が知らない土地に行きたい。
登呂遺跡とか。
今年も18切符で帰ろうか。

ライアン・ラーキンの映画を見て

先日、土曜か日曜に会社で仕事中、
mixiを見てたら気になるニュースが取り上げられていた。
それは、ライアン・ラーキンというアニメーション作家に関する記事。
記事自体は映画上映に関するイベントでタレントが何かしたとか、
そんな他愛もないものだったが、
ライアン・ラーキンの映画が今上映されているということ自体にすごく驚いた。


ライアンの作品を初めて目にしたのは、大学2年生位のとき。
(もう8年も前になるのか。)
神戸六甲アイランドにあるファッション美術館のライブラリーでだった。
ちょうどその少し前にシュヴァンクマイエルの映画を初めてスクリーンで見て、
日本のセルアニメーション以外のアニメにものすごく関心があった。
アートアニメーションなんて名前が定着する前だったと思うが、
数冊の本をたよりに、NFB(カナダ国立映画製作庁)の名前だけは知っていたので、
ライブラリーにあるその名前を見て、飛びついたのだった。
そのとき見た彼の“walking”をはじめとする作品は非常に心に残った。
その後もアニメを見続け、最終的に卒論で選んだテーマは、
ロトスコープ」と呼ばれる手法の有効性についてだった。
彼の作品は彼自身が言っているように
「これはロトスコープではないからすごい」としばしば語られ、
逆説的に卒論で取り上げた作品群でカバーできなかった急所な気がする。


mixiニュースを見た日、ちょうと帰宅できそうだったので、
これを逃すと見られないと思い、その日のうちに渋谷ライズXに駆け込んだ。


ほぼ8年ぶりに見た40年ほども前の彼の短編作品たち、
初めて見た彼に関するドキュメンタリー、
彼の作品と人生に見せられたアニメーション作家が制作した、
CGアニメーションによる彼のドキュメンタリー、
そしてライアンの死後完成した最新作にして遺作の短編。
彼自身がドキュメンタリーフィルムの中で語る短い言葉と、
映像の集合体が一つの大きな作品のようで、胸に迫った。


“walking”は真っ白な背景の中を様々な人物が歩く。
というただそれだけが6分間続くだけの映画だ。
だがこの作品を見ていると、色んなことに気づく。
彼の描く人物像はカリカチュア的だったり、デッサン的だったりするが、
基本的には簡素で、だからこそ「歩く」というシンプルな動作の中の多様性にスポットが当てられる。
俯いて、前のめりに、いやいや歩いているような男性。(年齢はわからない)。
素っ裸で、歩いていることそのものを確認しながら歩いているような少年。
画面の上手から下手に、顔だけこちらを向けながら、ヒップをふり、髪をなびかせ、挑発するように、
歩くゴージャスな肉体の女性。
「歩く」という行為が、ぼくたちに与える意味の多さ、豊富さに驚かされる。
そのとき、ぼくたちは同時にその意味の多様さに気づいている作家の「目」にも驚かされる。
他人を、目に映る人々を、ひょっとしたら自分自身の筋肉の動きを、観察する「目」に。


この『ライアン・ラーキン 路上に咲いたアニメーション』の映画のコピーは以下のようなものだ。


  世紀の天才とたたえられながら
  突然路上に消えた
  孤高のアニメーション作家が残した
  奇跡の短編と関連作を一挙公開


彼はアカデミー賞に代表される多くの栄誉や賞賛を得たのち、
20年以上にもわたるホームレスの人生を選択する。
ぼくが最も心を打たれたのは、
「小銭をくれ」という言葉の後に交わされる、
施しという名の短い一瞬を彼が「出会い」と名付けたことだ。
彼はドキュメンタリーの中で、
一瞬の出会いが毎日たくさんある、だから今の人生は幸せだ。
とつぶやく。
「小銭を」と語りかける彼の目に映っているのは、
“walking”の世界と寸分違わぬ、多様な人間の姿そのものではないか、と思った。
アーティストや作家と呼ばれる人々はよく、
「これはわたしの10代のときの体験をもとにした..」とか、
「この作品には彼の先天的な病が深く影を落とし...」とかいう言葉で評される。
しかし、ライアンの場合は逆だ。
ぼくには“walking”の6分の映像の中で表現されていた人間への関心、
その世界が、彼のその後のホームレス(ーつまり目の前を行く人々を眺め、
帽子のを差し出し、小銭を求める生活ー)という日々の中に現れているような気がしてならない。
彼のなかで人間というものへの眼差しやひょっとしたら人間愛と呼べるかもしれない、
人そのものへの感情は不変で、作品だけではなく人生の全ての時間において現れている。


“walking”に登場する人物たちは、カメラの前をただ通り過ぎる。
長くても数秒とどまり、フレームの外へ出て行ってしまう。
彼に声をかけることもなく。
ぼくにはそれが寂しいと思われた。
別にだからもっとああであったら良いのに、とは思わない。
でも彼に関するノンフィクションを読むにつれ、やはりそう思わずにはいられない。


要は彼が最期までただ一人で、路上の石段に腰掛け、世界を眺めていただけ、
のように思えるのだ。


このような感想は、
彼の人生と作品をたったの4行で表現してしまっている映画のコピーと何も変わらないかもしれない。
それでも彼がカメラに向かってささやく声と作品を見ていると、
彼の世界を眺める見方の優しさに心を掴まれるような気がする。


大島弓子の作品に、
自宅に鍵をかけない男性が恋人との死別を機にホームレスとなる、という話がある。
路上で寝転ぶ彼をみた元上司はこう言う。
「ああ 彼はついに 全世界を部屋にして そして そのドアを開け放ったのだ」


またどこかのホームレスハウスの壁面には、
「地球で寝る」
というようなことが書いてあったという。


彼が自分のことを自由だと信じていたかどうかは結局はわからない。
でも少なくとも彼の作品からは、人間の目が何を映してくれるのか、
その可能性の自由を無限に感じることができるように思う。


http://video.google.com/videoplay?docid=5440906293139687271#

江ノ島

過日、仕事中にお世話になっているADの方から電話があった。
ちょうどロケハン中で車でもあり、学芸大で合流。
「どこ行こか?」の応酬の後、江ノ島に行くことに。
するめクラブで読んでから興味があったのだ。
出発した時間は16時少し前。


第三京浜はお盆なのにそれほど混み合っておらず、
1時間と少しで藤沢に到着。
世田谷のどこか、といった風情の住宅街を抜けると、いきなり海。
江ノ島が目に飛び込んでくる。


橋をわたるとき、右手に見えた太陽が、日暮れが近いことを知らせる。



駐車場に車を停め、イカげその串焼きをごちそうになる。
コリコリ。
江ノ島神社の参道は、はじめから急な坂道で面白い。
両側にならぶ土産物屋も飲食店も軒並み貝をプッシュ。
山頂には世界の貝博物館もあった。



エスカーにはあえて乗らず、汗だくになりながら参道を登る。
のぼる。
のぼる。

山頂には寺やら神社やら展望台やら。
名物生しらす丼はどこに行っても売り切れ御免。



山頂付近の定食屋で、ようやく、
生しらす、小鉢だったらあるわよ」って店を発見し、
鯵のたたき丼と単品生しらすをいただく。
最高においしかったのは、結構登りで汗をかいたのと、
このお店の景色。
貴船みたいな床が、崖の上にせり出しており、藤沢の海岸線が眼下に広がる。
晴れの日には普通に富士山も見えるそう。

時間が経つにつれ、空が夜に変わる。



山をくだって降りる。
その後会社に戻る車のなかで、
「今日は夏休みだったな」と思った。