「語ること、失うこと」

万城目学の『ザ・万遊記』を読んでいる。
彼の2冊目のエッセイだが、
その中に「語ること、失うこと」という一編がある。


自身の作品についてインタビューを受けるたびに、
溢れてしまう説明のできない「何か」について語っている。


これって、いわゆる作品だけじゃなくて、
日常の色んな感情や気持ちや想像にも当てはまる。


例えば、恋愛のごく初期の頃、
○○さんのことが何となく気になってるかも、、いや気のせいかも、、
というとても曖昧な状態なのに、
それを誰かに言葉にして話したとたん、
「好き」というベクトルに固まってしまう。


誰かのことが「嫌い」という場合も同じである。
「部長、むかつく!」と誰かに話した瞬間から、
部長は「むかつく人」になっていってしまう。。
他の可能性もあったかもしれないのに、、。


これってとても注意した方が良い。と思う。
自分の気持ちとか感情とか、想像しているものなんて、
とても曖昧で、それをそのまま誰かに伝える、
なんてほとんど不可能に近く、途方も無い。
だから言葉にするときは、それを要約したり、整理したりする。
そのとき、抜け落ちちゃってる部分を自分自身が忘れてしまうこと。
それがなんか、ちょっと怖い。


ん?この感情は本物か?
他の感情は無かったっけ??
と、ちょっとだけ冷静な部分を忘れずにいたい。


逆に言えば、何かを整理したいときには、
誰かに話してみれば良いと思う。
ものすごく頭がクリアになることがある。


写真は先週行った、山梨白州町の風景。
すこーん。





さて、続きを読もう。

トラウマシリーズ 「吉作落とし」

日本昔ばなしの中で忘れられない怖い話、ナンバー1。



ささいなことがきっかけで崖壁から離れられなくなった青年。
何の悪事も働いていない、
健気に生きる青年にある日突然訪れる、死までの数日。。
助けの声は届かず、崖を流れる水を啜って生きる数日。。
死ぬことが明確なのに、それを信じられない青年の頭の中が、
じわじわとおかしくなっていく。。





この水を啜る目つきが怖い。。
健康な青年が発狂するに至るまでの時間は時間は、
誰かの悪意に満ちたように見える。。


動画は以下。
http://www.dailymotion.com/video/xl59qf_mnmb-yyyyy_creation

冒険

仕事をしている。
ここ数週間、数ヶ月ずっと。。
仕事は嫌いじゃないけど、忙しくなってくると色々考えてしまう。
そこそこの忙しさは、色んなことを忘れさせるけど、
いくところまでいくと、忙しさは色んなことを考えさせる。


なんで自分こんなことしてるんだっけ。
自分が望んだことだっただろうか。。


ぼくはどこにでも行ける。
西安の街角で寝転がることも、
ヒマラヤから登る朝日を見ながら珈琲を飲むことも、
ロッコから出帆する船に乗って貿易することも、
オーストリアの観覧車に乗って好きな映画を思い出すことも。
この人生で。


一度しかない人生で自分は何をして満足できるのか。
どれだけ恥ずかしい思いをしたって、満足して死にたい。
当たり前だけど。

久々に

最近石川直樹の本を続けて読んでいる。
彼が面白いのは自らを「冒険家ではない」と認識しているところ。
命に危険が及ぶようなリスクの高い場所に度々訪れている彼は、
まさに冒険家だと思われるが、
死のリスクが高いことと冒険はイコールではないとする。
では冒険とは何か?
先人の軌跡を辿り、
数えきれない旅の中の過程で彼がひたすら考え続ける、
その問いこそが彼の著作の面白いところ。


「レベルの高いクライミングをいくつもこなした後、
 何がしたいかを問われてある男は言ったそうだ。
 歩きたい、と。
 未知の方角へいつまででも歩いていきたい、そう言ったんだ。」


全ての装備を知恵に置き換えること (集英社文庫)

全ての装備を知恵に置き換えること (集英社文庫)

カキ氷2010

もう夏の面影はどこにもない。
今は秋が足早に目の前を通り過ぎるところを眺めて楽しんでいる。


あー今年の夏は、社会人になってから一番遊んだ。
楽しかったーと思う。
忘れないように、「カキ氷2010」


筑波山山頂。


豪徳寺の喫茶カノープス


宮ヶ瀬ダム


米国大使館のフェスティバル。


江ノ島

甘美な雪

大島弓子の「青い固い渋い」という短編に、
「わたしにはこの雪は甘美な感じがする」
という気持ちがよくわかる。
徒労の原因のその本人である雪ども。
だけど得体の知れない白いふわふわが、
見上げれば降り注ぎ、
見下ろせば降り積もっている様子は
町を新鮮に見せる。

どうやら雪はやんだ様子。
さああと1時間で夜が明ける。
どんな景色になってるか楽しみ。