ライアン・ラーキンの映画を見て

先日、土曜か日曜に会社で仕事中、
mixiを見てたら気になるニュースが取り上げられていた。
それは、ライアン・ラーキンというアニメーション作家に関する記事。
記事自体は映画上映に関するイベントでタレントが何かしたとか、
そんな他愛もないものだったが、
ライアン・ラーキンの映画が今上映されているということ自体にすごく驚いた。


ライアンの作品を初めて目にしたのは、大学2年生位のとき。
(もう8年も前になるのか。)
神戸六甲アイランドにあるファッション美術館のライブラリーでだった。
ちょうどその少し前にシュヴァンクマイエルの映画を初めてスクリーンで見て、
日本のセルアニメーション以外のアニメにものすごく関心があった。
アートアニメーションなんて名前が定着する前だったと思うが、
数冊の本をたよりに、NFB(カナダ国立映画製作庁)の名前だけは知っていたので、
ライブラリーにあるその名前を見て、飛びついたのだった。
そのとき見た彼の“walking”をはじめとする作品は非常に心に残った。
その後もアニメを見続け、最終的に卒論で選んだテーマは、
ロトスコープ」と呼ばれる手法の有効性についてだった。
彼の作品は彼自身が言っているように
「これはロトスコープではないからすごい」としばしば語られ、
逆説的に卒論で取り上げた作品群でカバーできなかった急所な気がする。


mixiニュースを見た日、ちょうと帰宅できそうだったので、
これを逃すと見られないと思い、その日のうちに渋谷ライズXに駆け込んだ。


ほぼ8年ぶりに見た40年ほども前の彼の短編作品たち、
初めて見た彼に関するドキュメンタリー、
彼の作品と人生に見せられたアニメーション作家が制作した、
CGアニメーションによる彼のドキュメンタリー、
そしてライアンの死後完成した最新作にして遺作の短編。
彼自身がドキュメンタリーフィルムの中で語る短い言葉と、
映像の集合体が一つの大きな作品のようで、胸に迫った。


“walking”は真っ白な背景の中を様々な人物が歩く。
というただそれだけが6分間続くだけの映画だ。
だがこの作品を見ていると、色んなことに気づく。
彼の描く人物像はカリカチュア的だったり、デッサン的だったりするが、
基本的には簡素で、だからこそ「歩く」というシンプルな動作の中の多様性にスポットが当てられる。
俯いて、前のめりに、いやいや歩いているような男性。(年齢はわからない)。
素っ裸で、歩いていることそのものを確認しながら歩いているような少年。
画面の上手から下手に、顔だけこちらを向けながら、ヒップをふり、髪をなびかせ、挑発するように、
歩くゴージャスな肉体の女性。
「歩く」という行為が、ぼくたちに与える意味の多さ、豊富さに驚かされる。
そのとき、ぼくたちは同時にその意味の多様さに気づいている作家の「目」にも驚かされる。
他人を、目に映る人々を、ひょっとしたら自分自身の筋肉の動きを、観察する「目」に。


この『ライアン・ラーキン 路上に咲いたアニメーション』の映画のコピーは以下のようなものだ。


  世紀の天才とたたえられながら
  突然路上に消えた
  孤高のアニメーション作家が残した
  奇跡の短編と関連作を一挙公開


彼はアカデミー賞に代表される多くの栄誉や賞賛を得たのち、
20年以上にもわたるホームレスの人生を選択する。
ぼくが最も心を打たれたのは、
「小銭をくれ」という言葉の後に交わされる、
施しという名の短い一瞬を彼が「出会い」と名付けたことだ。
彼はドキュメンタリーの中で、
一瞬の出会いが毎日たくさんある、だから今の人生は幸せだ。
とつぶやく。
「小銭を」と語りかける彼の目に映っているのは、
“walking”の世界と寸分違わぬ、多様な人間の姿そのものではないか、と思った。
アーティストや作家と呼ばれる人々はよく、
「これはわたしの10代のときの体験をもとにした..」とか、
「この作品には彼の先天的な病が深く影を落とし...」とかいう言葉で評される。
しかし、ライアンの場合は逆だ。
ぼくには“walking”の6分の映像の中で表現されていた人間への関心、
その世界が、彼のその後のホームレス(ーつまり目の前を行く人々を眺め、
帽子のを差し出し、小銭を求める生活ー)という日々の中に現れているような気がしてならない。
彼のなかで人間というものへの眼差しやひょっとしたら人間愛と呼べるかもしれない、
人そのものへの感情は不変で、作品だけではなく人生の全ての時間において現れている。


“walking”に登場する人物たちは、カメラの前をただ通り過ぎる。
長くても数秒とどまり、フレームの外へ出て行ってしまう。
彼に声をかけることもなく。
ぼくにはそれが寂しいと思われた。
別にだからもっとああであったら良いのに、とは思わない。
でも彼に関するノンフィクションを読むにつれ、やはりそう思わずにはいられない。


要は彼が最期までただ一人で、路上の石段に腰掛け、世界を眺めていただけ、
のように思えるのだ。


このような感想は、
彼の人生と作品をたったの4行で表現してしまっている映画のコピーと何も変わらないかもしれない。
それでも彼がカメラに向かってささやく声と作品を見ていると、
彼の世界を眺める見方の優しさに心を掴まれるような気がする。


大島弓子の作品に、
自宅に鍵をかけない男性が恋人との死別を機にホームレスとなる、という話がある。
路上で寝転ぶ彼をみた元上司はこう言う。
「ああ 彼はついに 全世界を部屋にして そして そのドアを開け放ったのだ」


またどこかのホームレスハウスの壁面には、
「地球で寝る」
というようなことが書いてあったという。


彼が自分のことを自由だと信じていたかどうかは結局はわからない。
でも少なくとも彼の作品からは、人間の目が何を映してくれるのか、
その可能性の自由を無限に感じることができるように思う。


http://video.google.com/videoplay?docid=5440906293139687271#