泣き顔は飲み干した
最近読んだ本
森博嗣『今夜はパラシュート博物館へ』
小川一水『フリーランチの時代』
小川一水『時砂の王』
森見登美彦『太陽の塔』
諸星大二郎『未来歳時記:バイオの黙示録』
恋之坂ナイトグライドの浮遊感がよい。
フリーランチの時代、「人類を平らげたい」とのたまうETとの、
あまりにあっけないファーストコンタクトと地球平定。
太陽の塔の、自転車で移動するときの京都の距離感。
バイオの黙示録、バイオの風に吹かれ誰もが異形になっていく。
恐ろしさを感じるのではなく奇妙に受け入れ、
抗わずに傾いていく社会。
シマックの世界のような静かで緩やかな人類の死。
スカパラのDear my sisterと、
矢野顕子清水ミチコ、コラボの「ひとつだけ」を聞きまくっている。
清水ミチコの野球を知らない人が聞いた野球の実況解説がすごい。
ことば
昨日尊敬する人から聞いた言葉。
「隣の芝生は青い。
だってほんとに青いから。」
リクルートのコピーらしい。
「青く見えるだけ。」と自分を納得させるより、
実際どっちが青いのか?客観的に問い直す立場がクールで、
潔い。
と、いう話を友人にしたら、
「隣の芝生が青ければ、
赤い花を植えればいい」
という言葉の方が好きだ、と言う。
彼女は借景の話もしてたが、
周りの環境をうまく取り入れて生活するのがとても上手い。
人がもつボキャブラリーって、
その人をとてもよく表現してくれる。
先週末、
大仏を見に行った。
会社のブログに詳しく書いたが、ぼくはすごく好きなタイプ。
遠くから視界に入ったときの驚きは、
映画館の照明が静かに落ちるときのような快感だ。
そのあと見に行った白髭団地も最高。
さすが墨田区の万里の長城と言われているだけあって、
長い。そして高い。
団地の中には神社やら商店やらが組み込まれており、
集合住宅というより、壁型都市の風貌。
見上げつつ団地間の通路をくぐり、
上って、見下ろしする。
実は防災施設でもある白髭団地は、
火災発生時に火の海になる周辺地域の、
延焼を食い止めるファイヤーウォールとしての機能を備えている。
巨大なシャッターやカプセル型給水塔を眺めながら、
興奮しっぱなし。
いつの間にか秋になった
一週間前、
東京に戻った。
長い長い旅。
旅に出る前は春の気配すら遠かったのに、
帰ったらいつの間にか夏が終わっていた。
今日も涼しい麻布十番のスタジオで書く。
以前にも書いたが、
今の仕事を始めてから自分の中身について考えることが増えた。
うすうすは気づいていたが、
「あんたとお姉ちゃんは育てやすかった」と、
両親から反抗期がなかったことを明言され、
自分でも怒りで我を忘れる位取り乱すことなく四半世紀生きてきたため、
どっかに欠陥があるんじゃないかと思っていた。
「優しいところが好き」
という言葉に嫌悪したときがあって、
「優しいは行為に対する形容であって、
人に対する形容じゃない。」
と言い、相手の言葉を詰まらせた。
あのときぼくは、
「人に対して優しい行為」というものを実行するのがすごく簡単だと、
考えていたんだと思う。
でもたとえ人が「優しい」と感じてくれたとしても、
「優しい行為」という器の中に入った言葉や行為は、
本気で心配したり、本気で相手のことを考えたりすることとは違う。
よくわからない。
自分は感じられなくなっているのか。
もっと単純な話をしたい。
今したいこと。
一番したいことが明確過ぎる。
でも他のこともしてみる。
写真は大阪四天王寺あたりで撮影したもの。
ブー子「うどんにしようか?焼き肉にしようか?」
モー夫「どっちでもいい。はやく食べよ。」
モー夫「一斗の焼き肉おいしいね。」
ブー子「わたし豚だけど、お肉大好き★」
共食いキャラもここまで来たかという珠玉の一品。
さっき編集菓子とユンケルを買出しに出た。
より道というにはあまりに近いが、
一ツ橋のジャンクションを見に行った。
橋脚の合間に透ける東京タワーの光。
かっこいい。
規格化された巨大なものって何でこんなに魅力的なんだろう。
言葉にしても、言葉にしなくても、整理できてません。
袋の色
久しぶりの朝から夜まで続く休日。
たっぷり寝て、起きて、同居人と昼飯を食べに出る。風が暖かい。1月と2月の差より、2月と3月の差の方がだいぶ大きい。
大倉山の駅横の坂道の途中にある店は珈琲屋やと思ってたけど、実はパン屋だった。クリームパンと何かの種パンを買って、坂を登り、大倉山公園へ。会館の地下の自販機でコーヒーを買って、裏手に周り梅林近くのベンチで子どもに囲まれながらパンを食う。子どもはおばあちゃんに話しかけながら滑り台を滑る。走りながら話しかける。おばあちゃんは子どもの靴を両手に持ち、何も話さず動向を見ている。パンを食べ終えて、少し歩く、線路の上を人がやっとすれ違える位の細い橋がかけてあって、そこを渡ると古本屋がある。ぼくは何も買わなかったが、同居人は2冊買ったようだ。駅まで歩いて、同居人と分かれる。2時間ほどマンガ喫茶でガンツとか読む。外に出ると日が沈んでいる。スーパーでゴーヤーとうどんを買う。ツタヤでハリーポッターの最新をレンタルする。家に帰って、御飯を作る。もう一人の同居人が仕事から帰って来て、一緒に食べながら映画を見る。それから、少しゲームをする。
たまの休みだろうが、毎日が休みのようなもんだった2年前と何も変わらない。散歩、古本屋、ツタヤ、料理。ぼくの生活圏にはツタヤとBOOKOFFとスーパー、あとちょっとおいしいパン屋があればそれで十分かもしれない。おだやかな夕方。もしくは人のいない夜の県道。ツタヤの青い袋とBOOKOFFの黄色い袋とスーパーの白い袋を下げて、家に帰る。
昨日観た映画:ノーカントリー
見たことのない風景
メモ:感じる心と言う勇気。たくさん歩け。
働いている。一日中。会社を出て、会社に戻る。今日晴れやんて気づくのが日暮れ。Tシャツで出勤して、泊まり込んでいるといつのまにか肌寒い季節になっている。髭がのびる。床で寝る。朝ご飯が眠眠打破。
この状況は確かに苦しい。まだ味わったことのない苦さ。
でも、まだ働いている。現在午前2時過ぎ。丑三つ時の六本木に、草木が眠れる暗がりはない。
今自分が働き続けていられるのは、映像が好きだとか、クリエイティブとか、広告とか、そういうことではなくて、自分自身の性格、中身を知って変えていきたいからだと思う。この仕事に影はない。自分の全てが相手の前にさらけ出され、引きずり出されてしまう。知っている言葉、好きな本、言葉の選び方、服の着方、人と話すときの姿勢、ネガティブなこともポジティブなことも何もかも。人と会って、人と仕事をする。内側がが空っぽになってしまうほど自分の内蔵はすかすかではないと信じているが、目の前に広げられた自分の内蔵が汚いのは、やっぱりショックだ。これが自分か、と思う。でも、そんな自分を自分はやっぱり知っていたような気もする。あのとき、何もかも自分が背負い込んでいるように感じて、匙を投げたときと今の自分は同じだ。それが目の前にさらけ出されているだけなのだ。その恥ずかしさが自分をここに居座らせている。午前2時22分、仕事場にて。
ダーククロニクル
最近観た映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』、『トランスフォーマー』
最近読んだ本『図書室の海』『六番目の小夜子』
いろんな考えや言葉が頭の片隅をよぎっては消えていく。
本を読みたい。本屋に行きたい。映画を観たい。映画館に行きたい。歩きたい。おいしいケーキとか、料理を食べたい。帰りにコーヒーを飲みたい。夜に車でドライブがしたい。美術館に行きたい。西高島平に行きたい。デジカメを買いたい。天然コケッコーが見たい。甥っ子を抱きたい。服を買いに行きたい。酒を飲みたい。ミラー館に行きたい。歩きたい。
並べてみると大したことないと思ってしまう。自分にとって最も満ち足りた時間であっても、何物にも替えがたくても、まだ、大丈夫と思ってしまう。全部足すとやっぱり郊外に住みたいということなんだろうか。
玄関の扉の開く音がした。朝4時42分。シェアメイトが帰宅した様子。
おかえりなさい。
散らかっててすみません。
RPGにはまっているんです。
「いっしょに冒険しよう」
明日から10月。