さよなら 空腹

バイト後に地下鉄でフェスティバルゲートに向かう。remo、〈Cityscape -From Photography to Moving Images〉。
吉村亜也子の“untitled -place1”は、世界各国の観光ガイドに掲載されている名勝、観光地の写真をつなげたもの。印刷物をカメラで再撮影しているため、色や質感が鈍く平板な印象。「そこにしかない」はずの唯一無比の場所が、→「どこかで見た記憶のある」「どこにでもありそうな」観光地へと化すのはいつからだろう。“place -home”は、アメリカのどこかの中小都市の郊外にありそうな住宅街を被写体にしている。家々は同じ形、同じレイアウトで整然と並んでいる。庭木や車が無ければ、隣の家の扉を開けてしまいそうだ。この家々を正面像をモーフィングで繋げている。バックには、効果音シリーズのCDに入ってそうな、「鳥のさえずり」が聞こえる。モーフィングの技術によって与えられるのは、変化ではなく、結果だと思った。つまり、形や位置の異なるものを滑らかに繋いでいるようで、間のフレームにある映像に注意する余裕がない。結果に引きづられでしまう感覚。“one place -home”は家々を正面から、斜数十度からの同じアングルで撮影し、また、住宅地の外部にある植物園やスーパーで撮影された映像をはさみながら展開される。作者のコメントによると、それらの住宅はあくまで都市との関係性によって存在するのであって、住宅相互のコミュニケーションは不在であるとのこと。公園も、集まるための施設もなく、住宅街の外部にスーパーや植物園だけが持ち込まれている。日本の郊外のイメージとは異なる部分も多いが、不気味なまでに均質な空気をポジティブにとらえる方法はないだろうか。“place -a city”は世界数都市の展望台から撮影した静止画を切れ目なく繋げ、スクロールしていくビデオ作品。ランドマークは極力消去して制作しているそうだが、微かに残るビル、川、地形からこれがどの都市であるかを読みとらずにはいられない。バルトの「エッフェル塔」を思い出した。読まれるテキストとしての都市の肌理。
もうひとりの作家Palla(河原和彦)は、大阪を撮影したコントラストの強い写真一枚から一本の映像を制作する。それらの作品のオリジナルの写真はおそらくそれほど独創的ではないが、それらを上下左右あらゆる角度に反転させ万華鏡のようにしたり、切り取って何十枚もずらしながら動かしていったり、画面ごとかすかに傾けたりすることで、不思議な空間が立ち上がる。都市を構成する直線が重なって反復と消失を繰り返す。それは幾何学的でありながら、両生類の卵のように半透明で、内臓のぜん動運動のように動く。パーツが上昇と下降、様々な動きを続けるうち、次第に平衡感覚が狂うような、画面の中に落ち込むような気がした。