深夜、コンビニの駐車場で水を撒く理由

今日観た映画:『モンスターハウス』(監督:ギル・キーナン 、製作総指揮製作総指揮: スティーヴン・スピルバーグジェイソン・クラークロバート・ゼメキス
パンフレットを片手読みしていて気になる記述があったので、急遽バイト後に見ることにする。オープニングシークエンスに代表されるように、カメラがよく動く。一枚の葉っぱに焦点を当てていたのが急降下して、少女の三輪車を追い掛け、少女の表情を捕らえる。ワンカットでの動きが大きいだけでなく、カメラワークの構造自体が複雑になっている印象。パンフの気になる記述とは概ね以下の内容。「モーションキャプチャーが“悪魔のロトスコープ”と呼ばれ、動きの創造が失われる。しかしこれは〈アニメーター〉にとっての価値観であり、〈ディレクター〉にとっては、自分がOKを出したテイクが忠実に再現されるため、理想的だ。ディレクターは撮影の際、役者の演技、体の動きにのみ注意していればよい。しかもライティングやカメラポジションはあとから自由に調整可能。モーション気ャプチャーとは“新しいカメラ”だといえる。」演技=役者の動きかどうか、などいくつかの疑問はおいておくとして、この指摘は三つの意味でおもしろい。一つは“悪魔のロトスコープ”という何十年前も前からの議論が今なお俎上に挙げられているという点。さらにその考えが〈アニメーター〉か〈ディレクター〉か、という役割の中で違う意味をもつことを指摘している点。最後が、モーションキャプチャーが“新しいカメラ”である、という点。とくにこの最後の問題は非常に興味深く、以前から掘り下げたいと考えていた。映画に3DCGの技術が導入されるようになってから、最も大きな変化の一つが視点・カメラポジションの移動の可塑性、柔軟性が増した点だと思う。ロードオブザリングの塔の上で蝶を追っていたカメラが、いつのまにか塔から離れてどんどん引き、はるか後方に広がる山脈をとらえるシーンがその代表的な使用方法だ。問題はそこからさらに現実のカメラワークを再現しようとするのか、違う可能性を探るのか、というところにあるような気がする。
キャラクターデザインや表情の変化はピクサーやドリームワークスはやっぱりうまい。カートゥーンの蓄積が見事に生かされていると思う。あと、モーションブラーをあえて省くことで、クレイアニメのようなパカパカとした動きの効果が得られた、とも書いてあった。ウォレスとグルミットや他の3DCGと並べてみたい。

水撒きの理由はまだわからない。