消費の都市、生産の地方

松風台秋

最近読んだ本

  • 『日出る国の工場』村上春木安西水丸コンビが全国津々浦々の工場を訪れたレポート+村上流その解釈がワンセットになって、合計七つの工場がとりあげられる。人体標本工場やギャルソンの工場など選定もさる事ながら、どこか牧歌的な空気がどの工場でも漂っている気がする。それは彼自身が書いているように、レポートの上では「本当にそれは必要なのか」という掘り下げた判断を回避し、ただ案内者の誘導に従いおもいつきのままに品物や機械や働く人に触れていく、というやり方が影響しているのかもしれないし、そもそも文体がそのような雰囲気を醸し出しているのかもしれない。だとしても、「工場がどこにあるか」という事実は重要だと思う。たとえば、〈京都科学標本株式会社〉は「京都駅から国道一号線を車で二〇分ばかり南に下ったところにある。このへんはわりにガランとしたところで、高速道路の近くにポコッポコッと広い空地やら畑やらが残っていて、伏見の近くだから古い酒倉なんか見受けられる。云々」といった風景の中に置かれるし、〈アデランス工芸株式会社〉は「新潟県中条町にあり、敷地は十三万平方メートル、四万坪」というものすごい広さで、中には巨大な体育館、文化施設、カラオケ・ラウンジみたいなものまである。」と地方に誘致されている様が描かれている。うちの周りでも、昔は山野だった場所が切りくずされ、工業団地や研究機関が増えてきている。そのため、風景は変わり、交通量は多くなり、騒音はするし、生き物の気配がなくなった。逆に駅周辺に使い勝手のよい円形の図書館やら巨大なホールができ、文化的御利益は増したという面もあり、市策全体としては否定できない気もする。なんにせよ、工場が田舎にできたわけだが、その風景は案外おもしろいものだ。低い山に挟まれた川沿いの谷の横を太いバイパスが走り、その両側をいたずらに巨大な工場が何十も続く。日本のいたるところにこんな光景が広がっているのだろう。田舎には工場があり、都会には消費がある。どこかのオフィス街を歩きながらそんなことを考えた。

最近行った展覧会
ビル・ヴィオラ:はつゆめ Bill Viola:Hatsu-Yume (First Dream)〉(森美術館

最近観た映画
NANA2』誰が面白いと思ってこんな映画にしたんやろう。どこにぐっとくれば良いのか全く判らない。判らなさ過ぎてきらいじゃない。