開かれた謎

先週末、国立国際で開催中の〈エッセンシャル・ペインティング〉展へ行った。
会場は可動壁で格子のようにほぼ均等に分割され、順路は定まっていない。またキャプションはほとんどなく、作家名が展示空間の境に記されているだけである。主に出入り口付近では作品のサイズが大きく点数が少ない、奥では小さく多い。気になった作家はまずマンマ・アンダーソン。木製のパネルが透けて見えるほど薄く施されたアクリルのペインティング。描かれているのは砂漠か丘陵のような広い景色と、変哲のない室内。それらが同時に同一の画面に描かれている。反復といっても窓の外が夜になっていたり、炎の上がった部分があったり、色の塗られ方がより薄くなったりと異なる箇所も多い。ジョン・カリンは以前兵庫県美でみたのとたぶん同じ連作の作品も展示されていた。ラス・メイヤーの映画に出てきそうな異常に胸の大きな二人の女性像、痩せたどこかインテリ風の中年の女性、極端に曲線的ないびつな輪郭をもつ妊婦、柔らかい色彩で描かれた金髪の女性など。作家の戦略が自分の想像と微妙にずれている感覚は楽しい。そのずれを埋めようとさらに考えを深めることができる。ネオ・ラオホの作品は中世の宗教画やなどどこかにオリジナルが存在するのではと挑発するような構図、遠近法をもつ。様々なイコンが解読を待っている気がする。他に、4人の男や女を描くアレックス・カッツシャガールを連想させるローラ・オーエンズなどが面白い。同時開催中の〈小川信治展―干渉する世界Interfering Worlds〉も見応え十分。スーパーリアリズムの鉛筆版とでもいえる絵はしかし、現実を冷静に写し取ったものではなく、そもそも存在しない場所を再現している。目を近付けて確かに鉛筆で描かれているということの「証拠」を発見したときに、ふと安堵するのは何故だろうか。そういえば、同じ日に眼鏡屋に行って視力を計測してもらった。「床が傾いて見えないですか」「赤と緑どっちが奥に見えますか」「周辺部歪んでないですか」とか聞かれ、「傾いてません」「歪んでません」と一応答えるものの、ほんとに「正しく」見えているのか不安が残る。同じような不安がこの展覧会でも頭をかすめた。

最近読んだ本
『村上朝日堂』村上春樹安西水丸コンビの一冊目。
五分後の世界村上龍。1945年に日本が降伏せず、アメリカ、イギリス、中国、ロシアに分割統治され、26万人に減った純血の日本人がゲリラ兵士として戦い続けるパラレルワールドに迷い混んだヤクザの主人公小田桐、彼が戦闘の中でその世界をある種の理想であることを発見するまでを描く。この物語が『すばらしい新世界』や『1984』などと異なるのは、主人公が(アンチ)ユートピアを完全に受け入れてしまう点にある。前者はユートピア小説の形式をとりながら、当時のイギリスや冷戦状況下の諸問題を現実の延長線上に来るべき世界を描いているのに対し、本作では今日の現実日本をシミュレーションとして仮定するほどかけ離れた理想郷を描いている。これをナショナリストにとっての理想郷ととらえるか、そのような理想をも含めて批判、再考の対象としてとらえるかでは意見が別れるだろう。しかし、この物語からでは、降伏の不在という仮定からして、原因のすべてを「敗戦」一点に起因するものと考えてしまう気がしてならない。批判の根拠が過去へのベクトルしか持たないのではないか。とはいえ、戦闘場面の描写は確かに圧倒的。「炎が土砂をえぐりとる音、人間の上半身が燃える音や大小のうめき声、目の裏側で点滅と収縮を繰り返す光、粘土細工の人形のようになって燃える人間の匂い、全身を被って息もできないほどの熱風、口や鼻の穴や耳や目に土砂をはじき入れてくる地面の震動、ありとあらゆるものが生きのびようとする意思そのものを嘲笑するかのように感覚を揺さぶり続けた。」
今日観た映画
戦国自衛隊1549』(監督:手塚昌明)『五分後の世界』と非常に近い設定を持ちながらチープな物語。チープはいいんだけど中途半端はよくない。オリジナルの『戦国自衛隊』の方はまだ面白そうなんやけど。