酒気帯び映画鑑賞

『ヴィタール』(監督:塚本晋也)を観る。
解剖室、都市、主人公の部屋、いたるところの表面が不快で暗い質感や肌理とともに強調され残る。対照的に主人公の経験する「もう一つの世界」は明るく鮮やかな原色を保っている。記憶喪失の主人公が生死や精神と肉体、現実と虚構など軸を見失って彷徨う様子が対照的な明暗のなかにも読み取れる。
解剖とは匿名性のもとに身体を物質として分解して構造を把握すること。手―リアリティの実感しやすい部分。心臓―生きている限り動き、休息は死を同義語。「感覚」(意識?)は脳の深部ではなく表面で発生している出来事であること。脂肪の色は黄色だということ。
解剖によって把握できるものは身体の構造ないし機能とそれの関係についてである。「精神」の所在についての情報はない。わたしたちが生命の種明かしとして期待しているのはPCのon/offボタンのような、「きっかけ」ではないか。与える影響力の大きさ、作用の及ぶ範囲においてon/offボタンはあらゆる機能の上位に置かれているようにも思える。だが人間の身体と同じようにこのような機械も連続した多数の装置が機能したときのみ、成立する(目的を果たす、あるいは目的達成に向かう?)ものである。やはり「精神」とは単一な電源ボタンではなく、蓄積された記憶と外界との都度の接触の間に存在するようなものなのか..?
http://www.vital-movie.com/