荷、解体

確かに引越し作業は不毛だと思う。何日もかけてまとめた荷物をものの数時間で解体せねばならない。今回はまとめることなく数時間で詰め込んだだけであったので、前半は楽な作業であった。そのつけはすぐに回ってきている。膨大な量のモノを前に、自分はこんなゴミの中で三年以上も住んでいたのかと思うとゾッとする。しかし問題は処分すべきものとそうでないものとの間の線引きである。その境界線上のグレーゾーンをさらに三分割して、「着られるけど、おそらく二度と着ない服」「着られるけど、たぶん着ない服」「着られるけど、ひょうっとしたら着る服」などに分けてしまう。『プラネテス』でユーリ氏が語っていた、空と宇宙の境界線の話をぼんやりと思い出す。境界線は果たしてあるのか、ないのか。決定すべきか否か。

引越し作業の合間に『アフターダーク』を読む。キーワード、脚本、カメラ、視点
この小説を読んでいて注目せざるを得ないのがまず、映画の脚本のように仕立て上げられていことだと思う。章(というよりむしろシーン)の冒頭には必ず、そのシーンの場所と、その場の状況が描かれ、そこに居る人物の様子が描写される。またセリフの「」の上に、発話者の名が付される箇所もある。場や人物の仕草の描写も脚本のト書きのようである(「男はうなずく」「マリはそこで少し間を置く」)。
浅井エリの場面に顕著だが、「質量を持たない観念的な視点」から物語は描かれる。映画カメラよりも自由度が高いように(モニタを乗り越える)もみえるが、FI,FOのような用いられ方や、登場人物が去った後の場の描写などは、明らかに映画的表現を参照しているといえる。またカメラは物語内のモチーフとしても登場する。娼婦を襲った白川を撮影した防犯カメラ、あるいはエリを撮影しているはずのカメラである。このようなカメラに加えて物語そのものを撮影、俯瞰しているのが「私たち」と人称付けられたカメラである。カメラによって人間の視点は複数化し、交錯する。どこに本来の自分の眼が存在するのか分からなくなる。カメラの視点は複雑化し都市と人間に絡みつく。