体中の穴

地下鉄の穴

先週金曜日、バイト後、恵美須町のIndipendent theater 1stで劇団France_panhttp://frpn.com/)『スペアー』を観る。開演間際に到着すると、20〜30畳程?の小さな空間の三方にイスが三列ずつ並べられ空間の中央から残りの壁一面に向かって舞台が展開されている。舞台といっても板があるわけではなく、円形に砂が敷き詰められ、水槽やソファ、配管、パソコン、ラジコン、段ボール、ブランコなど様々な道具が配置されている。また、客席を含む小屋全体は鉄骨で構成され、ぼくの座った席の頭上や右手のあたる位置にも鉄棒が巡らされていた。芝居は木村という男性と彼の部屋に流れ込んできた男女の3人が織り成す会話で進んでいく。興味深かったのは、常に視界に誰か別の客の顔が入り込んでくるということ。それは客席が環状であるということだけでなく、役者が客と数センチメートルの距離まで接近して演技し、ときおり特定の客に向かって語りかけるような動作を伴うこととも関係している。観客にとって他の観客はどのような役割を果たすのか。少なくとも一時的には邪魔な存在であると仮定できる。そのため、この芝居では観客だけでなく役者からも目をそむけてしまうことになった。また、客席と舞台の距離がほぼないに等しいという点もおもしろい。多くの場合、演劇体験はかなり「望遠」の視点で成り立っているように思う。ビデオなどで役者の顔面の細かな動きを観察できたときに驚くのもそのためだろう。『スペアー』では最前列の観客の足は舞台の中に食い込んでいるし(靴が砂まみれになった)、役者が手を離したブランコが自分に当たるんじゃないかと身を退ける観客がいる。結果的に観客は舞台や役者のかなり細部までを目撃することができる。実際ぼくが座った席の眼前には水槽に入った亀がおり、その亀が一時間半ほどの間、意外に始終動き回って泳いだり、水面から顔を出したり、石の上に上がったりする姿は4人目の役者のように思えた。
昨日は車で梅田まで乗り付け、雲仙の串焼き、マリエルボーンのスコーンを食べてから学校。阪大の鷲田先生のレクチャーを聞く。鷲田先生の話を聞くのは二回目だが今回もかなり刺激的な4時間だった。「体中の大切な穴のすべてをわたしたちは見ずに一生を終える」「わからないことをわからないまま正確に対処するということ」「身体をbody(物体)としてではなく、様々なやり方でとらえることが可能である。たとえば像、式、構え、強度・密度として。」「〈穴という穴〉から恐怖が出入りする」(荒俣宏)楳図の『神の左手〜』についても再考の余地があるかもしれない。