東名のどこか

exterior2006-07-09

最近観た映画『デスノート前編』(監督金子修介)。
水曜日に東京ジャーミィに行った。
代々木上原駅から歩いて徒歩5分ほど。住宅街の中に忽然とモスクがある。一階の扉が閉まっていたので外階段から二階へ上がる。礼拝堂の入り口で靴を脱ぎ、女性はスカーフは巻かなくてはならない。入ると正面奥で神父らしき人と男性とその子どもが礼拝の真っ只中。膝をつき、頭を下げ、立ち上がって、祈りの言葉をつぶやく。子どももきちんと覚えているようで三人の声が不思議にまとまって後ろに座っているこちらの方まで届く。あとで別のトルコ人に聞いたところによると、礼拝堂は言葉が自然に頭上へ上がり、吹き抜けに満ちて、礼拝堂内のすべての人の頭上にまた下りてくるようになっているらしい。アラビア文字だか何かの一節が壁面のいたるところに装飾として配置されているが、これはコーランの一節やアッラーと、ムハンマドら聖人を表すとのこと。青が多く、六角形を基本にした文様が視界を覆う。この日は朝から雨が降っていたが、入り口の方から入り込む雨音が静かで心地いい。その次に礼拝に来ていた男性の話によると、イスラムはどこで礼拝しても経典上は変わりないが、人生の煩雑な部分とは違ってここは落ち着くからジャーミィに来て祈るのだと言っていた。その感覚はなんとなく分かる気がした。そうすることで自分の生活をそとから見る事もできる。彼は人生はアッラーからのプレゼントであり、そのことを自分は知っているということを表すために一日に五度の礼拝を行うとも言っていた。ぼくたちが寺や神社に行くのは祈り事ではなく、願い事であるのとは当たり前だが根本から違う。あの少年は礼拝中何を考えているのだろう。彼も人生の日常の部分と違うものを求めて礼拝にやってくるようになるのだろうか。
礼拝堂を満喫したあと、一階の展示スペースのようなところを案内してもらう。トルコに一度行くと他の国には行けなくなるから、まだ行くなとか言われる。帰りに大量のパンフレットとDVDまでいただく。

最近読んだ本、リチャード・バック『イリュージョン』、「救世主」「予言者」という言葉からキリスト教的な主題を想像して読みはじめるが、それは単にこの言葉が登場している範囲内に限られる。認識と飛行機についての話。最後に救世主ドンが自ら死ぬときの感じを言葉にする箇所の喩えがいい。
笠井潔『SFとは何か』、アンソロジーとしても使えるし、近代文学とSFの関係性についてもよく理解できる。扉絵がひさうちみちおというのもにくい。